暦の上では既に春になったとは雖も未だ冬だと言い切れるくらいの寒さはあると言える。
雪こそ降っていないが霜が降り、仄暗い、ぼんやりとした世界が広がっている。
朝の静謐な空気が肺を満たすと心無しか清々しい気分になれるから不思議だ。
日も昇りきっていない時刻。
常であれば今の刻限は夢の中と言った所。
其れをこうして起き上がり、冷えた空気の中を歩いているのは偏に今弁慶の目の前を行く人物によるものだ。
共に朝に強いという訳ではない。
二人して時刻が大分回ってしまった頃に起きてしまうことの方が多いほどだ。
だからこそ今日のこの早朝の行動は弁慶にとって不可解としか言い様がなかった。
無論家を出る前に望美にその意図を問うてみたが、それは無駄だった。
何かあるんですか。と問い掛けても悪戯めいた微笑みを浮かべ、ついて来て下さいの一点張り。
生まれた世界が違うからか、はたまた其の天性からか、望美に驚かされる事は今までも多々あったことだが、今回はとんと意図が見えない。
それ故面白いと言ってしまえば其れまでだが、気に掛かるのもまた事実だ。
「望美さん、何処まで行くんですか?」
幾度目になるか解らない質問を繰り出す己に弁慶は言った後に苦笑いをする。
「後もう少しですよ」
返って来る答えなど、解りきっていたから。
先ほどからこの応酬の繰り返しだ。
普段通らぬような山沿いの道を歩く。
機嫌良く軽い足取りで歩いて行く望美に「隣を歩きませんか」と言い掛けて、止める。
戦場ではない大地を進む其の背中を見るのが、厭ではなかったから。
「……望美さん、この先は崖しかありませんよ」
時折薬草を取りに来る場所だから粗方の地形は頭に入れている。
其れを望美に進言してみても「それでいいんです」と、笑みを含んだ声で返されるだけだった。
「――着きました」
崖の少し手前で振り返るようにして言った望美を見て、弁慶は首を傾げた。
昼間であれば見晴らしが良いであろう……けれど今の時刻、景色というものは薄っすらとしか見えはしない。
一体何があるんですか。と問い掛けようとした所で、地平から細い光が漏れ出すのが見えた。
――夜明けだ。
そうと認識してからは早かった。
冷たい空気を暖かいものへと変え行こうとする如く、やわらかな光が徐々に薄闇を晴らして行く。
「ぴったりのタイミングでしたね」
その台詞で望美の目的がこの朝日が昇る瞬間を見る為だと察する事が出来た。
だが、何故今日のこの日であったのかが解らない。
美しい朝日に気を取られながらも、「何故今日なんですか」と弁慶は口にした。
冬の寒い日であった方が陽光が素晴らしく感じたのかもしれない。
もう少し暖かい春の日であった方が、世界の幸福を感じられたかもしれない。
だから、何故なのか。その理由が知りたかった。
だがそんな弁慶の考えを余所に、望美はきょとんとした顔で小首を傾げて見せる。
「わかりませんか? 今日は弁慶さんのお誕生日だったから、お祝いしたかったんです」
徐々に、降りていた霜が溶け始め朝露へと変わり行く。
世界を照らすように光を広げて行く朝日。
それを背にするように、少し弾んだ声で囁きかける。
「僕の……?」
未だ戦の最中にあった頃、弁慶は望美の世界での誕生日の話題は聞いていた。
だが実際にこうして祝われるなどという事は予想だにしておらず、驚きを隠せぬように声を上げた。
その様子に望美は満足そうに目を細めてみせる。
「そうです。私にしてあげられることってこれ位しか無かったんですけど……ね、綺麗でしょう?」
誇らしげに笑う姿が眩しくて、思わず目を細めた。
手を伸ばせば届く距離にいて、こうして生誕した日を祝ってくれる。
嬉しいと言うのとは少し違った、微かに面映ゆいようなこの感情。
この感情は一体何か。
「弁慶さん? 気に入らなかったですか?」
不意に不安になったような表情を見せ顔を覗き込むように伺って来る姿に、弁慶の顔が綻んだ。
(ああ、そうか――)
腕を伸ばし、華奢な体を抱き込むとその体は最初からしつらえられたように違和感なく
腕の中に収まった。
「君がくれたものです。――気に入らないわけがありますか」
(この気持ちはきっと)
愛しいというのだろう――。
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