目を開けると其処は、歯車が動き始めた場所。

 今まで暮らしてきた世界。

 高校生活を過ごしている学校。

「帰って、来たんだ……私」

 雨が降り、冷え切った空気に細い肩を震わせ、制服に包まれた体を抱きしめた。

 手にはもう剣はない。

 仲間も、力も何もかもを置いてきた。

 空虚な心を抱えたまま、覚束ない足取りで校舎へと入って行く。

「家に帰って、……明日から、また……此処での日常を過ごさなくちゃ……」

 声を出すつもりなど無かったのだろう、小さく動いた唇から漏れ出た言葉は誰にも聞こえない程に小さい。

 もう忘れるべきなんだと自分に言い聞かせ、もうあちらの世界に行く必要はないのだと自分に言い聞かせ。

 悲嘆にくれた顔は人に見せられるようなものではないのに、そんなことにまで意識は行かない。

 かえらなくちゃ。

 濡れた地面に足を降ろす。

 靴の裏の溝に泥が入りこんでしまったのかベチャベチャと不快な音がする。

 容赦なく降り付ける雨は、髪や、体や制服を濡らして行く。

 長い髪というものは濡れた時、邪魔以外の何ものでもない。

「そういえば、弁慶さんも髪の毛長かったな……」

 考えたくない筈なのに思い浮かぶのは彼の人の顔。

 そんな自分を忌々しく思うかのように、顔を顰めた。

 雨音だけが耳に響けば良いのに、如何あっても彼の声が頭から離れずに居る。

「恋、してたんだなあ……」

 過去形にしたのは心の表れ。

 今だって本当は好きで好きでたまらない筈なのに、そんな自分を押し殺そうとしている。

 痛々しくて仕方が無い姿だと、周囲からは映るだろう。

 あちらの世界に居る間の時間は経っていなかったようだが、授業を受ける気になどなれなかった。

 只管帰ることだけを考えて居る足は、正確な道筋を辿る。

 たとえ意識せずとも幾度も通った道を間違える事はない。

 何時の間にか辿り着いた家。

 家のドアノブを動かそうとしたが、鍵が掛かっているのか開かなかった。

 緩慢な動作で、鍵を取り出そうとしていたが、不意に動きを止める。

 手荷物を全て学校に忘れて来てしまったのだと、この時点で漸く気付いたのだ。

「…嗚呼、お母さん、居るかな…」

 今から取りに戻るのも億劫で、何より一人でまたあの場所の近くを通りたくない。

 右手を持ち上げ、人差し指で呼び鈴を押すと、その音に答えるように、玄関に近づいてくる気配を感じた。

 一瞬の間を置いた後、鍵の開く音と、ドアが開く音がする。

「望美?! こんな時間に……嗚呼どうしたのそんなに濡れて! 傘は持って行ったでしょ?」

「……ごめん」

 ぼんやりと謝罪することしかしない娘の姿を熱でもあるのかと思ったのか、母親は娘の手を取るようにしてシャワーを浴びてくるように促した。

「理由は後で聞くから。さ、早く温まってきなさい。上がったら、何か温かい飲み物用意しておくから」

 あの時空で共にいた仲間達とは違った安心感が此処にはある。

 何気ない母も微笑み、さり気無い母の気遣い。

 今までだって気付いてはいたけれど、こんなに大きな意味を持つものだとは思わなかった。

「……ありがとう」

 懸命に笑おうとした表情は不恰好だったが、それでも、気持ちは伝わったのだろう、母親はいいのよ。と笑ってみせた。

 濡れて重たくなった髪の毛を纏め、肌に貼り付いた制服を脱いで行く。

 不意に手に触れた硬いものに、体の動きが止まった。

「……嗚呼、まだあったんだ、逆鱗……」

 もう必要ないのにと哀しさや苦しさの入り混じった視線を落とし、緩く長い溜息を吐き出した。

 そして、出来るだけ逆鱗を見ぬようにしながら脱いだ衣服の上に置き、浴室へと入る。

 シャワーのコックを捻ると、設定温度が高かったのか、純粋に体が冷え切っていたのか、熱い飛沫が体に掛かった。

「……あつい……」

 熱いシャワーは、頭を冷やしてくれるどころかより一層彼の人への想いを駆り立てるかのようだ。

 この熱い一滴一滴と一緒に、想いも溶けてしまえば良い。

 息苦しくなるような熱気の中で、只管それだけを願い、目を伏せた。



『望美さん――』

 暗いくらい、闇の中に、
押し殺したような声だけがが聞こえる。

 変だな、もう、聞こえるはずのない人の声なのに。

 もう、逢えるはずのない人の声なのに。

 嗚呼、そっか。これは夢なんだ。

『…………』

 ……何も言ってくれないんですか…?

 どうせ、夢なら、姿を見せてくれたって良いのに。

 優しい言葉を言ってくれれば良いのに。

 ……今、貴方は何を考えているんですか?

 強く強く貴方の事だけを念じていると、ぼんやりとした姿が浮かんできた。

 弁慶さん……。

 余り視界が良いとは言えないから、はっきりとは解らないけれど。

 私には、彼が苦しんで居るような気がして、……泣いて居るような気がして――。

 近寄って顔を見ようと思うのに距離は一向に近づかず、否、どんどん離れて行くみたいで。

 私は声を振り絞って彼の名を呼んだ……。



「弁慶さん!」

 飛び起きると其処は、見慣れて居る筈の自身の部屋。

 夢だと認識していたはずだったのに、酷く動悸が乱れている。

「…………わた、し……」

 外は既に明るく、カーテンの隙間から陽の光が入りこんできている。

 静謐な空気は先ほど見た夢の事など忘れてしまいなさいと語りかけてくるように。

 早まる鼓動を落ち着かせようとしながら、昨夜、棚の上に置いた逆鱗を見遣った。

「……やっぱり、弁慶さんの言葉を素直に聞くような良い子には、なれないみたい」

 カーテンの隙間より漏れ入る光を受けた逆鱗は、まるで最初からそうなることが解っていたかのように輝き続ける。

 昨日とは正反対のいっそ清々しい気分で、乾かされた制服へと袖を通し、逆鱗を握った。

 ふ、と軽く息を吐いたところで、軽いノック音が聞こえ、返事を返す前に扉が開く。

「望美、もし体調が悪いんなら今日学校お休みして……あら、起きてたの?」

「……心配かけてごめんねお母さん。私、もう大丈夫だから」

 何時もより幾分も大人びた笑みを見せる娘に、一瞬はっとなったような顔をするものの、母は何も言わなかった。

「それじゃあ、早く支度をしてしまいなさい。あら、貴方鞄は?」

 向けられた言葉を何とか誤魔化しながら、身支度を整える。

 玄関で靴を履いている娘に向かい、気遣わしげに母親が声を掛けた。

「もし途中で具合が悪くなったら、直ぐに早退しなさいね」

「大丈夫だって。……あ、そうだ。お母さん。……武蔵坊弁慶、って……最期、如何なったんだっけ……?」

 脈絡の無い問い掛けに、一拍の間を置いて。

 それでも、記憶を辿るようにゆっくりと言葉が漏れ落ちた。

「確か……全身に矢を受け大往生したんじゃなかったかしら」

「……うん。そっか、そうだったよね……」

 何故今そんな事を問うたのかは口にした本人にすらわからぬ事。

 ぐ、と足に力を込めて玄関から外へと出ようとする。

「あ、お母さん」

 不意に振り返った娘に、母は顔を上げた。

 逆光により、娘の、何かを決意した顔を窺うことは叶わない。

 眩しさに目を細めながら、続く言葉を待った。

「……行ってきます」

 少しの間を置いて紡がれた言葉は極々平凡で、こんな風に面と向かって言われると些かの違和感すら感じる。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 送り出す言葉に大きく頷くと、軽い足取りで玄関を出、扉を閉めた。

 何処か、遠くへと娘が飛び立ってしまうような感覚に陥り、ふ、と表情が曇る。

 其れでも母は、学校に行くだけなんだからと自分に言い聞かせ、家事をしに家の奥へと戻って行った。


「……行ってきます、お母さん。……ちゃんと、帰ってくるから……」

 そう言って微笑んだ娘の手には、白龍の逆鱗が握られていた。

 恐らくこれから幾人もの人を切る。

 大切な人を守るために。

 若しかしたら自分も無事ではすまないかもしれない。

 けれど、何時か必ずこの家に帰ってくるから。

 その時は、今から逢いに往く、守りに行く人も、きっと一緒に。

「遅くなっちゃったけど今行きますから、無事でいて下さいね。……死んでたりしたら承知しないんだから」

 若しも戦っていたら、共に戦おう。

 若しも泣いていたら、抱きしめてあげよう。

 大丈夫、今度は間違わない。

 貴方と一緒にいられる未来を捨てたりなんかしないから。

 だから、お願いです。

 泣かないで下さい。

 好きだと言って下さい。

 待っていて下さい。

 死なないで下さい。
 ――今、貴方の傍に行きますから……。



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