「……先生、剣を、剣を取ってくれませんか……。 私、戦わなくちゃ……」
師と崇める男へと、娘は懇願の声を絞り出す。
其れに対し男は苦しげな風に目を瞑り、首を横に振るしかなかった。
一体何度目だろうか、男がこの運命に辿り着いてしまったのは。
片手だけでは足りぬ、両手でも若しやすると足りぬかも知れぬ。
何も知らぬ者どもは此れを穢れだと言った。
平家方にとってその存在自体が不利益になる源氏の神子を屠る為の呪いだと言った。
――白龍の神子である娘がその程度、乗り越えられぬとでも思っているのか。
此れが、通常の穢れの類であったのならば如何様にも手の尽くしようがある。
しかし、そうではないのだと男は知っていた。
……娘を蝕むのは病魔。
痩せ細った腕の、何処に剣を振るう力が残されていると言うのか。
「先生……」
掠れた声が促したとて、男は此れ以上娘に苦痛を与えたくなかった。
何か、無いのだろうか。
男は熱に浮かされたような娘の顔を見ながら考える。
……何時の時空だったか、何度も娘の世界について聞いた事がある。
娘が元々に、生きていた世界であるのならば。
この病魔に打ち勝つ方法が何か残されているのではないか。
龍神の、……白龍の逆鱗を使えば、娘が元の世界に還る事は『容易』。
男も逆鱗を持つ身であれども、神子の居た世界と言う場所を知らぬが故に送り出す事が出来ない。
神子が自らの意志で以て望まねば其の道は開かれない。
――神子が去った後のこの時空が、如何なるかなぞ、最早如何でも良い事。
「――神子」
男が娘に呼びかけると、其れに答えるように僅かに娘の乾いた唇が動く。
恐らくは返事をしたつもりであったのだろう……咄嗟、音にはならなかったようではあるが。
その事がより男の心を抉り、娘を元の世界へ返す決意を強めていた。
「神子。元の世界へ戻りなさい。……此の世界では、お前の身体を治す事は、出来ない」
最後の方は僅かに掠れてしまった。
けれども静けさが籠もる部屋の内に於いては娘の耳に言葉が届かない筈もなく。
聞いた瞬間に、娘は僅か、哀しそうに目を細め、首を緩々と横に振った。
「かえれません。……私、ここで、治して、……また、戦えるようにならなくちゃ」
此処で姿を消しでもしたら、源氏軍に混乱が訪れる事を想像するのは容易。
娘は其れを危惧し、故に此処に留まると言う。
……治ると、信じて。
「神子。此処では治らない。……私は、何度も見てきた。――苦しむだけだ」
汗で額に張り付く前髪を指で払い乍、男は努めて冷静に響くよう、声を出す。
自身の感情を覗かせぬよう、――己の記憶の内の、死に逝く娘の姿を思い起こさぬよう。
「……、そう、ですか」
呆気無い程あっさりとした声が娘の口から漏れる。
否、あっさりと言うよりも、他にどんな声を出すべきなのか解らないと言った声だ。
泣き笑いのような表情を浮かべ、娘は男を見上げる。
涙で視界が揺れているのか、その焦点はやけに曖昧。
「私、最期まで頑張れると思った……、たくさん、たくさん私を見てきてくれた先生が、傍に居てくれたから、私はこれくらいじゃ死なないんだ、って、思ってた」
見込みがないのならばどうして傍に居たのかと、娘は責めたかった。
けれどももう、そんな気力も無いし、何より傍に居てくれた事が男の優しさであるのだと娘は知っている。
死に逝くと解りきっている者の傍に居続ける事など、男にとって苦痛以外の何でもないのだから。
嗚呼、もう。
娘の内から何もかもが消えて行く。
守りたいと言う気持ち、皆が好きだと言う気持ち、幸せになりたいと言う気持ち――何もかも。
虚ろな目で天井を仰ぎ見る。
何ら代わり映えしない筈の天井が、先ほどに比べてみると真っ黒に見えた。
終わりなのだと、娘は思った。
「痛い、苦しい、辛い。……、先生、ごめんなさい。私、もう、逆鱗を使える程の力も、残って無かったんです」
正直な告白に、息を飲んだのは男の方。
それ程迄に弱っているのだとは知らなかったのだろう。
――それ程までに弱っている娘が、剣を所望するとは思わなかったのだろう。
口元に微笑を浮かべ、娘は男に視線を移す。
「先生、死にたく無かった。私、ほんとは……、でも、もう」
言葉は最後まで紡がれる事はない。
けれども男の目は確りと娘の乾いた唇が動いたのを捕らえていた。
――コロシテ。
懇願でしかない娘の言葉が如何男に届いたのかは解らない。
しかし男は、過去形で物事を話す娘の首に、手をかけた――。
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