冷たい雪が身体を冷やして行く。

 此のまま、この心ごと凍ってしまえば良いと密やかに願ってしまうのは自分が弱いからなのだろうとそっと胸に手を添えた。

「駄目ね。考えが悪い方にしか行かないわ」

 もう片方の手を頬にあて、ほぅ。と息を吐くと其処に白い色が発生した。

 真っ白に覆われた庭は寒い。其れをもの語っているように。

 ――此処は奥州、平泉。

 自らの兄を裏切るような行為をしてまでも、仲間を裏切ることは出来なかった。

 ……戦いたくないのはどちらも一緒だったけれど。

「……譲殿?」

 押し寄せてくる罪悪感から逃れようとふるりと頭を振った所で白い色の中にその人を見つけた。

 其の背中は此方に気付く素振りもなく、何かを一身に見詰めているように見えて、咄嗟に声を掛けることは躊躇われてしまう。

 そうとは言っても、その目が一体何を見ているのかが気に掛かってしまい、立ち去る事も出来ずにいた。

「あれは……」

 けれども、次の瞬間に立ち去っておけば良かったと思う事になる。

 目を凝らした先に居たのは、自分の対と――銀と呼ばれる人。

 二人、寄り添うように言葉を交わし、去って行く。

 その二人の背を見送るように立ち尽くしている彼の、彼女に対する想いを知っているだけに直視するのは辛かった。

 誰かを想い、胸を痛ませる姿は多少の形は違えども何時かの自分の姿と似ていたから。

 やがて二人の姿が見えなくなった頃、不意に立ち尽くしていた影が振り向く。

 咄嗟に身を竦めてしまうけれど、姿を隠せるような場所は何処にもなかった。

 振り返った彼は自分の姿を見られていたことに気付いてか、少しバツの悪そうな顔をした後に苦い笑みを浮かべていた。

「朔……、見て、いたんですか」

 憤りでも何でもない、情けなさを少しばかり醸し出しながら言われた言葉に、こちらも申し訳なさそうな顔をするしか出来なかった。

「……座って……少し、話でもしませんか?」

 思いの外やわらかな誘い掛けは瞬時返事をすることを躊躇わせた。

 けれども「話したいことがあるんです」、と付け足されるように言われ、頷くことしか出来ずに、肩を並べるように歩きだす。

 それが先程見た二人のようで、それでいて全然違うもので……今の自分達が、何だかとても滑稽に感じた。


 横に並ぶようにして腰掛けた縁側から見える世界は真っ白い地面と、白い色に姿を隠されかけた木々だけ。

 長い長い沈黙の後に、溜息のような吐息が漏らされた。

「庭に……」

「え?」

 次に言葉が出るであろうことは粗方予想がついていたが、其れがあまりにも小さなものだったので、声が出てしまう。

 そして其れは言った本人にも解っていたのか、再度息を吸い込むと、ゆっくりと言いなおした。

「折角、庭に花を植える事を許可して貰ったのに、……無駄にしてしまうことになってすみません」

 其れが。

 何に対して“無駄”なのか解ったわけではないけれど、考えるよりも先に口から言葉が零れ落ちていた。

「無駄なんかじゃないわ。花は……花はやがて、其の身を咲かすもの。そして、そして……何より。……譲殿の花を咲かせてあげたいという想いも、無駄ではないのよ」

 そう言うと、彼の顔は泣き笑いのような、判別のし難いものへと変わった。

 不意に視界が動き、頬に粗い繊維が当たるのが知れる。

 此れは彼の服。片腕を引かれ、残った片方の手で肩を引き寄せるように抱き込まれる。

 顔を見られたくないのだと気付くには、そう時間は掛からなかった。

「…………すみません。少しだけ、……此のままで、居させてくれませんか……」

 問い掛けのような口調ではあったのだが、実際の其れは、問い掛けでも何でもない、ただの事後報告。

 其れを否定する術もなく、ただ小さく頷くと、頭上で小さく息が漏らされる。

「望美は……」

「先輩が誰を想っているのかは、正直、今となっても解らないんです」

 此方の質問を遮るかのように、言葉が覆いかぶさる。

 不快とも疑問にも思うことなく、続く言葉を待った。

「でも。それでも。先輩の気持ちが俺に向かない事は、昔から知っていた。……ただ、認めたく無かった」

 ぽつりぽつりと落とされる告白は、恐らくは誰に向けてでもない、自身に言い聞かせるような響きを持つ。

 腕に抱き込まれていてもただ慰めることも出来ずに、静かに彼の言葉に頷く事しか出来ないでいる自分が、少しだけ恨めしい。

 けれど、慰めなんて必要は無かったのかもしれない。

 続けざまに紡がれた台詞は、予想を綺麗に裏切るものであったのだから。

「先輩が、好きでした。……けれど、実らない想いだと漸く認める事が出来た今、落胆よりも……不思議と、虚脱するような安堵感に包まれている――」

 開放されたような気がすると囁かれた時、嗚呼、彼も苦しい恋をしていたのだと思う。

 自分と同じに、苦しんでいた彼の心は解き放たれた。

 ――羨ましかった。

 愛したことが辛いとは思わない。愛さなければ良かったとは思わない。

 けれど、愛の日の記憶を抱えたまま生きるには、人は余りにも脆過ぎる。

 思わず黙り込んでしまったが、其れは特におかしな事ではなかったようで、彼が其れについて言及することはなかった。

 ただ彼は、二人の間だけに響く程度に言葉を奏でるだけ。

「成就することはなかったけど……俺の気持ちは、“無駄”じゃなかった。たとえ後からどんなに惨めな感情が沸き起こったりしても……。俺はきっと、先輩を好きになれたことが何よりも幸せだったから」

 無駄じゃない、と。

 そう言ったのは確かに先程の自分。

 そして其れをこんな形で返して来たのは、彼。

 ――私は幸せだった。何の予兆もなくあの人が消えたことこそ悲劇だと思えど、……私は、幸せだった。

 たったそれだけのことに気付くのに、どれ程の時間が掛かった事か。

 恐らく彼の言葉がなければ其れすらにも気付かずに、帰って来ない人を待つ自分を憐れみ続けた事なのだろう。

 彼にしてみれば自分の気持ちを語っただけのことだろうに、其れがこんなにも胸に響く。

 雪の舞い散る空気はとても冷たい筈なのに、何故だか酷くあたたかく思えた。

「有難う、朔。…………俺は、あなたの言葉に救われたんです」

 身体を抱き込んでいた腕の力が緩むのを感じる。

 其れを引き止めるかの如く、ぎゅ、と彼の衣服を握り込んだ。

「いいえ。…………いいえ」

 ――救われたのは、私の方よ。

 自らの顔を、彼の胸に押し付けるようにする。

 いきなりしがみ付く様に振舞う姿を見て動揺しているのが伝わってくる。

 それでも、彼は何も言わずに、慰めるようにそっと肩口に指を触れさせるだけだった。

 其の手が気遣いや優しさに満ち溢れていて……息が詰まる程に嬉しい。


「……朔? 泣いて、いるんですか……?」

 ――優しい声に、言葉も返せず小さく泣いた――。


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